罰則条項 「牙琉検事!」 昇りかけていた階段で脚を止める。振り返れば、赤い弁護士が地裁の厳粛な廊下をバタバタと走ってくるのが見えた。 周囲の人間が、驚いた顔で彼を見ていても、気にした様子がないのは、少しだけ王泥喜らしく、少しだけ彼らしくない。 「やぁ、おデコくん。」 廊下は走っちゃ駄目だよ。と小声で囁くと、ああっ、すみませんと頭を下げた。ぴょこんと跳ね上がる前髪を見つめて、響也は随分と久しぶりだと感じる。懐かしいとさえ感じる心に苦笑した。 「どうしたの? まぁ、勿論仕事だろうけど。」 普段通りに笑いかけたつもりだった響也を見る、王泥喜の表情は違っていた。思いきり口を歪ませる。 「どうして事務所に来ないんですか?」 「お嬢ちゃんが寂しがってるのかな? 悪かったね、仕事が詰まってて、もうちょっと待ってくれるように言っておいてくれるかな?」 口に出した言い訳の半分は本当で、半分は嘘だ。 成歩堂さんと顔を合わせたくないのが理由で、気持ちの整理がつくまで時間が欲しいのは本音。 「寂しがってるのは、成歩堂さんですよ。」 間髪入れずに返った答えに、一瞬心臓が踊る。 そして、王泥喜の眉が僅かに上がったのを見て、見抜かれた事は理解出来た。そんな事があるはずないのに、動揺してしまった自分が情けなく、酷く滑稽に思える。 「…酷いな、僕を引っ掛けたのかい?」 「すみません。」 悪びれた様子もなく謝罪の言葉を口にする王泥喜には、苦笑するしかない。 「とにかく、責任をとって頂きます!」 大音声を響かせて響也に指を突き付けた王泥喜は、再び人々の視線を集める。 会話を続けるには、余りにも不都合な状況に、響也は王泥喜を空いている控え室へと誘った。同意した彼を従えて部屋へ入ると、背中に大きな溜息を浴びせられる。 「責任って…一体、どうしたんだい?」 「どうしたも、こうしたも…。検事、顔色が悪いですね。具合でも良くないんですか?」 珍しいですねと付け加えてくる王泥喜に、僕も人の子だからね。と付け加えた。 「この頃、少し睡眠時間が減ってるかな。良くないとは思うんだけどね。」 「それだけ検事が忙しいのに、どうして俺は暇なんでしょう。」 嫌味をたっぷりと含んだ返答は、王泥喜の本音なのだろう。くくっと笑えば、笑い事じゃないですと憤慨された。 「事務所にいる間中、愛情表現と言う名の嫌がらせを受け続けている俺の身にもなって下さいよ。過去に戻る事が出来るなら、あの裁判を有罪にしてぶち込んでやろうかと思った位です。」 腕輪の填った腕で拳を握りしめると、怒りの為にか筋が浮く。 「それは、尋常じゃないね。それが僕と一体どんな関係があるの?」 「この間、俺が怪我をした時に此処にキスしましたよね?」 控え室にある椅子に腰掛けた響也に、王泥喜はズズイと額を突き出した。打ち身はすっかりと良くなった様子で、艶々とした額が広がっていた。 「うん。立派なオデコはそそられて、出来心さ。」 「あれから、ずっとですよ。…口では色々言ってますけど、あの人こそ見抜けないっていうか、理由の如何ははっきりしないんですが、成歩堂さんの地雷を踏んじゃったみたいです。」 「まぁ、確かにあの時機嫌が悪かったね、彼。」 (ほぼ無理矢理に、身体を繋げさせられた程に)心に浮かんだ想いに苦笑した。なので、続いた王泥喜の台詞には絶句する。 「認めましたね。だったら、牙琉検事が成歩堂さんをとりなして下さい。」 「なんだって!?」 暫くの沈黙の後、出て来たのは絶叫だった。王泥喜も思わず耳を塞ぐ声を発した事に気付くと、響也は口を掌で塞いで赤面する。 「何を言い出すのかと思えば…おデコくんだって、僕が成歩堂さんから快く思われていないのは知ってるはずじゃないか「だから、ですよ。」」 王泥喜は腕を組み、自信たっぷりに響也を見上げる。 「どう考えても、俺に非はないです。なので、牙琉検事が責任を取って何とかして下さい。」 「…なんだよ、その自信…。」 「当然です。」 きっぱりと言い切る押しの強さは、兄のようでもあり成歩堂のようでもある。そして、王泥喜が両方で弟子である事を思い出せば、溜息が出た。 どうして、弁護士って職業の人間達はこうも、自信満々なのだろうか。 「……正直なところ、成歩堂龍一と会話するのは好きだったよ。」 口にした言葉が、オドロキだったのだろう。王泥喜は、真ん丸な目をいっそう真ん丸にして響也の顔を穴が開くんじゃないかというほど、凝視した。 「なんて顔してるんだい、おデコくん。」 笑いかければ言葉に詰まる。口をモゴモゴとさせた。 「でも、僕ばかりが楽しくても仕方ない。成歩堂さんも楽しいと思ってくれなきゃ、意味ない上に、僕は彼に嫌われてる。謝罪に訪れたって、余計に機嫌を損ねるだけだよ。」 「…そりゃ、確かに牙琉検事と会話してる時成歩堂さんも緊張して…でも、嫌いって事は…。」 「嫌いって言われたんだ。七年前の事を謝罪した時にね。でも可笑しいよね、それから僕は成歩堂さんと頻繁に会うようになったんだから。」 ともかく無理だよ。そう告げようとした響也を王泥喜は制した。必死の形相で詰め寄り、お願いしましたよ。と唸った。 「もしも、俺が殺生沙汰を起こした案件が検事局に提出された場合、原因は間違いなくアナタですからね!」 捨て台詞も鮮やかに、王泥喜は響也を残して、控え室を出て行った。 content/ next |